音楽アーティストに影響を与え続ける人たち
過去に活躍した音楽アーティストの中には、一線を退きつつ他の音楽アーティストに曲を提供し続けるケースが少なくありません。
1969年に結成されたバンド「はっぴいえんど」は、わずか3年から4年程度の活動期間でしたが、日本の音楽界、特にロックの分野でハッキリとした爪あとを残しました。1970年代以降の日本の音楽シーンを、はっぴいえんどを軸として解説する評論家も存在するほどです。はっぴいえんどのメンバーは、細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂の4人からなりますが、それぞれのメンバーがその後の音楽シーンに大きな影響を及ぼしています。
大瀧詠一は、はっぴいえんど解散後もシンガーソングライターとして、更には音楽プロデューサーとして幅広く活動を続けました。1974年には自身のレーベルを立ち上げたほか、多くのCMソングの制作に関わりつつ、多羅尾伴内名義も含めて他の音楽アーティストへの曲提供を精力的に行っています。
1977年にリリースした「夢で逢えたら」は、その後多くのアーティストによってカバーされヒットを記録したほか、1980年太田裕美に提供した「さらばシベリア鉄道」はスマッシュヒットを記録、以降も松田聖子の「風立ちぬ」、小林旭の「熱き心に」など、幅広い楽曲を世に送り出しました。
一方、はっぴいえんど時代にドラムスとして活躍していた松本隆は、解散後は作詞家として他のアーティストに曲提供を行い、国内でも有数の作詞家として君臨し続けています。1975年、デビューして間もない太田裕美の楽曲「木綿のハンカチーフ」は松本隆が作詞を担当し大ヒットを記録、1981年バラエティ番組で人気を博していたイモ欽トリオがリリースした「ハイスクールララバイ」は、作曲が細野晴臣、作詞を松本隆が担当しています。
1983年には細野晴臣も所属していたイエローマジックオーケストラの楽曲「君に、胸キュン。」を担当したほか、1980年代に一世を風靡したアイドル松田聖子や中山美穂の楽曲を数多く手掛けるなど、その才能を遺憾なく発揮しました。
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